館長通信

写真:中道淳

No.832024/06/15

本と遊ぶために(4)読書という謎のプロセス

読書は特別な行為ではありません。世界中の小学生がさまざまな教室でさまざまな地域の母語にもとづく教科書を読み、その行為を通して大いなる学習の基礎をつくります。

やがて子どもたちは好きな本を読んで心を潤わせ、ときに考え、ときに悩み、ときに好きな作家や著者の本を辿ります。長じては専門書や学問書に耽り、ビジネス書やスキル本を渉猟するようにもなるでしょう。

だから読書はたいへん一般的な習慣になっているものなのですが、その習慣は食事やスポーツや音楽の楽しみとは何かがかなり異なっています。会話をしたり、映画を観たりする行為とも異なっている。読書はひたすら黙りこくっている本を相手に、そこに何かを感じる行為なのです。

そうだとすると、私たちは読書をどのように生活や思索や学習に活かしているのでしょうか。実は、「読書の科学」や「読書の哲学」はいまだに解明されていないのです。解明のプロセスそのものに読書行為が入りこんでいるからです。

では、そもそも読書ではいったい何がおこっているのか。絵本やマンガをべつにすれば、読書は「テキストを読む」という行為です。テキストは古今の著者やライターが詩や文章や物語や論文にして書いたもので、言葉の組み立てや組み合わせによって成立しています。そのテキストを自分なりに解(ほぐ)していくこと、それが読書の基本です。

つまり読書では、書き手と読み手が交流しているのです。私はかつて「読書は交際である」と定義したことがありました。読書は書き手と読み手のデートであって、相互コミニュケーションなのです。けれども野球のピッチャーとバッターの関係のように、読み手がヒットを打つときもあれば、空振り三振をするときもある。読書は何かのゲームにも似ているのです。ヴィトゲンシュタインという論理哲学者は、これを言語ゲームと呼びました。

しかし、ゲームならその場でおわるはずですが、読書の体験はアタマに残ります。またその内容や場面や言い回しを思い出すこともできます。どうも読書はその場かぎりの体験ではないようなのです。

それだけではありません。読書を成立させた本には、一人の読み手だけではなく、たくさんの読み手がずらーっと連なっているのです。

シェイクスピアや漱石やドラッカーの本は、いつだって誰もが読めるのです。野球ゲームの一挙手一投足もあとから思い出すことはできますが、そのゲームを世界中のプレイヤーが体験できるようにはなりません。本はそれをべらぼうな数で可能にしているのです。

太宰治を読むということは、たくさんの太宰治の読み手の一端に加わるということであり、アンデルセンを読むということは世界中のアンデルセン体験者の列に交ることであり、カントを読むということはドイツ観念論の考え方にみんなとともに塗(まみ)れるということなのです。

こうなると、読書という文化は閉じていないということになります。読書という行為のプロセスには、たくさんの読み手の経験が共存しているのです。いやいや、それだけでもありません。実は書き手もそこにつらなっているのです。太宰治のテキストは今昔物語や中国の民話とつながっていますし、アンデルセンの童話はグリム童話ともそれ以前のペローの童話集ともつながっているのです。当然、大半の学問についての本は、それ以前の本とつながります。

読書は連鎖しています。テキストには古今東西の別のテキストが出入りしていたのです。本を読むとは,そうした世界大の「意味の世界」の一隅で遊ぶということでもあったのです。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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