館長通信

写真:中道淳

No.782024/03/15

噂と名作

世の中には評価や評判がつきものだ。市場社会ではよく売れる商品が人気になる。ベストセラー商品である。これは売れ行きという数で決まる。テレビの人気も視聴率という数で決まる。ネットではアクセス数がものを言い、「いいね」ボタンの集積がその数を下支えする。

何でも数で決まっているようだが、とはいえ世の中の評判や人気の正体はなかなか掴みにくく、予想もしにくい。社会学者たちも困ってきた。そこには「噂」が関与しているからだ。噂とは何だろうか。

かつては評判や人気や噂はマスコミや批評家がつくっているように思われてきたけれど、必ずしもそうではない。『枕草子』や『徒然草』の時代でも噂は気になる出来事だったし、学校や町内などの小さな社会でも噂はめぐる。「いじめ」は教室でもおこる。最近はネットで呟かれた数行のコメントがあっというまに拡散して、当事者を苦しめるということが頻繁におこっている。風評被害も社会問題になっている。

いったい噂や人気はどのように世の中を駆けめぐり、商品や人物や作品を躍らせているのだろうか。なぜ噂は人々を一喜一憂させ、ときに深刻なソーシャル・ハラスメントをおこしているのか。考えてみると、けっこうな難問なのである。

一方、評判や評価がとっくに確立したものもある。ユゴーの『レ・ミゼラブル』、漱石の『こころ』、川端康成の『雪国』は早くから名作と言われていた。文学だけではなく、ゴッホの「ひまわり」や岸田劉生の「麗子像」などの絵画作品、ベートーヴェンやチャイコフスキーの交響曲やショパンのピアノ曲、黒澤明の「七人の侍」、デビッド・リーンの「アラビアのロレンス」、コッポラの「ゴッドファーザー」などの映画でも、名作が定着していった。

これらの名作はどのように定番化したのだろうか。発表当初からの評判がよかったものもあるが、問題作が転じて名作になっていたものも少なくない。「質」が力を発揮したのだった。

名品、名人、名優、名場面などという言い方がある。名だたる工芸品、名だたる職人、名だたる俳優という意味だ。ふりかえって検討してみると、この「名」というのが曲者なのである。国宝や重文に指定されたから決まったわけではない。『古今集』や『清少納言』や梁塵秘抄の時代すでに「名所」や「名物」という評判が立っていた。

これは当時の歌(和歌)や流行歌(今様)が、好んで「名」を織り込んでいたためである。固有名詞や特定の場所や特定の産物を、歌枕(うたまくら)のように入れ込む詠み方が奨励されていたせいもある。ご当地ソングのようなものだとみればいい。この「名」をあげつらうやり口は各地の民謡の「お国自慢」の仕方から、さまざまなジャンル番付の流行、ベストテン主義などをへて、今日のラッパーたちのバトル対決の手法にも及んでいる。

噂や人気や名物は、その時代ごとの名作を誇りたいための「表現スタイル」の流行とともに、あれこれの翼をつけるようになったのだ。この翼とともに噂が広まったのだ。ただ、このことがしだいに「数」の競争となり、市場競争となり、過剰な風評をまきちらすすようになったのは、残念なことだった。

噂に惑わされないようにするのは容易ではないけれど、あらためて時代を超えた名作群を吟味して、できれば「量」では語れない「質」の文化を心ゆくまで交わしたいものである。少数者の応援もしてみることだ。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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