館長通信

写真:中道淳

No.772024/03/01

神と仏と人工知能

私たちはいつも「ふつう」と「ふつう以上」をくらべている。たとえばエベレスト登頂者、難関受験校に入学できた者たち、売上や純利益がめざましい企業、サッカーのトーナメントの決勝に残ったチーム、ノーベル賞受賞者、ショパン・コンクールの上位入賞者などが「ふつう以上」とみなされる。平均を超えているのが「ふつう以上」だ。

この場合の「ふつう」とは、規定分野のそれなりの共通ルールにもとづいて競い合った結果の平均値のことをいう。検定科目やスポーツ界ではこの平均値はいつも明確だ。そのため「ふつう以上」を示した者はついつい秀でた才能の持ち主だと思われる。

しかし世の中には既存のルールがあてはまらないような「ふつう以上」が出現することがある。たとえば奇跡をおこした聖人、連続殺人の冷徹な犯人、数日で1億回のアクセスを得たユーチューバーなどである。かつてはこのような「ふつう以上」から神や仏や怪物や悪魔が想定されてきた。

いま、AI(人工知能)の能力と将来が大きな話題になっている。厖大なデータを学習(深層学習)したコンピュータシステムが記述能力としての「ふつう」を演じてしまうのである。その成果が平均以上なのだ。いつも「ふつう」の仕事に手こずっている者にはたいへん便利で、ありがたい。計算能力が長けているなら当たり前だろうが、生成AIがそうであるように、「意味」を調合してくれるように感じるので、みんなが使いだした。

その一方で、次のようなことが問題になってきた。ひとつはやたらに性能のいい汎用人工知能(AGI)がいつか人間の能力を超えるのではないかという問題、もうひとつはAIが別のAIを学習し、そのAIをさらに別のAIが学習していったら、そのネットワークはどうなるかという問題だ。

いずれも「ふつう以上」の登場なのだが、それがAIやそのネットワーク化によって担われるかもしれないというところが、大いに議論になっている。この「ふつう以上」が訪れるポイントはシンギュラリティ(特異点)とよばれる。

前者の問題はAGIが神や仏や悪魔にならないかという懸念とつながっている。後者のネットワーク問題は、かつて神や仏に多くの信仰者が参入することになった宗教の拡張のような光景を想定させる。どちらも厄介な問題になりそうだということで、ここから意見が分かれ、対立することになった。改良派と促進派である。

改良派は、AIを人間の文明に即したグッドネス(善)のほうにもっていけるように規制し、改良していくという方針を強調する。「効果的利他主義」(EA)という。大乗仏教のように利他性に価値を見出そうとするものだ。とはいえはたしてAGIが大乗の菩薩道に目覚めてくれるか、保証のかぎりではない。

促進派は、人類がこれまでの文明社会の矛盾や資本主義の難点に気づくまで、むしろ開発を加速させるべきだと主張する。「効果的加速主義」(e/acc)とよばれる。当初、ニック・ボストロム、ニック・ランド、ピーター・ティール、イーロン・マスクらが急先鋒に立った。チャットGPTを大当たりさせたオープンAI社はイーロン・マスクとサム・アルトマンが設立した。しかし、こうした加速主義にはさまざまところから「ブレーキかけろ」の狼煙が上がっている。

いったい21世紀文明はどちらを選択するのだろうか。それとも「ふつう」と「ふつう以上」という価値観をつくりあげた文明にヒビが入りつつあるのだろうか。私の編集工学的な観点からすると、「ふつう」と「ふつう以上」以外の、「芭蕉っぽい」とか「ちょっと変わってる」とか「たくさんの意味がまざっている」といった価値観が世の中から排除されつつあることが、むしろ問題だと思われる。文章やアートは「意味」の多様性を許すものなのだ。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

Pagetop