館長通信

写真:中道淳

No.712023/12/01

鉛筆、レンズ、鍋、スマホ

私は長らく文房具フェチだった。子供のころはノートが好きで、母親が選んでくれたノートに応じて、そのまっさらなページを何で埋めればいいのか、昆虫尽くしなのか、いろいろな記事の切り抜きなのか、絵日記なのかでときめいた。

中高時代からは安物の万年筆フェチ、その次はシャープペンシルに凝った。いったん凝ると、シャーペンをノッキングするときのコチコチという音までいとおしい。編集や執筆の仕事をするようになってからは原稿用紙フェチだ。自分用の原稿用紙もつくった。

パソコン時代に突入してもあいからずで、いまでも三菱のVコーンがないと本が読めない。本を開いて読みはじめ、気になる箇所に出会うと青と赤のVコーンでマーキングする。マーキングも最初は赤鉛筆や2Bの鉛筆だったのだが、それがシャーペンになり、Vコーンが定番になった。

ヘンリー・ペトロスキーに『鉛筆と人間』や『フォークの歯はなぜ四本になったのか』という本がある。読むと目からウロコが落ちる。この人はもともと土木環境工学の専門だったのだが、短い針金をちょっと曲げただけのゼムクリップの驚くべき機能力に感心して、身近な道具について詳しく調べるようになった。『本棚の歴史』という本もある。

私たちはもはや鉛筆、ゼムクリップ、ポストイットを手離せない。紙があるかぎり、これらは三種の神器のようなものだ。同じく鍋やフライパンやスプーンも手離せない。食材と火があるかぎり、これらがあればなんとか暮らしていける。ついでながらイヴ=マリ・ベルセに『鍋とランセット』というユニークな本があるのだが、これは予防医学の歴史を扱った本で、鍋とランセットが種痘や予防注射を支えてきたという話になっている。鍋は手術にも役に立ってきたのだ。ランセットとはかんたんな採血具のことをいう。

私にとっては眼鏡も欠かせない。たった5分でも眼鏡がないと日常のすべてが漠然とする。いまは遠近両用眼鏡が目の代わりをしている。レンズのおかげだった。

レンズは科学も支えた。ルネサンスがヨーロッパにゆきわたったころ、オランダのハンス・リッペルハイという眼鏡職人が凸レンズと凹レンズを組み合わせて望遠鏡を数台作り、そのうちの1台がガリレオの手に入って天体が間近に見えるようになった。その望遠鏡で月や木星をスケッチした『星界の報告』は、いま見ても感動する。それからしばらくして顕微鏡が工夫され、こちらはロバート・フックが極小の世界を覗いて『ミクログラフィア』というすばらしい図集にしてみせた。レンズは極大世界と日常世界と極小世界を一挙につなげたのである。

いったい道具とは何だろうか。紙と鉛筆があれば、どんな文章も書けるし、どんな絵も描ける。ペンとインクさえあればマンガ家にもなれる。鉛筆が万年筆になりボールペンになっても、紙がカンバスになり電子タブレットになっても、基本の機能は変わらない。けれども道具が変わるたびに、そこから出力してくる「作成物」は新しくなっていく。建築設計図になったり、マンガになったり、CGになったりする。

道具の魅力は、大きくいえば三つある。一つは私たちに記録と表現の才能を促してくれる。紙、鉛筆、クレヨン、三角定規、Gペン、ロトリング、タイプライター、レコード、録音機、ワープロ、ビデオなどが活躍してきた。二つ目は私たちの知覚や身体機能を補強してくれることだ。鍋、スプーン、フォーク、眼鏡、カメラ、電話、録音機、補聴器、杖、潜水服・・・。ここには味覚や触覚の拡張や学習の強化が含まれる。三つ目はその道具がなければその機能の恩恵に出会えなかったことが実現できるような、そういう道具だ。自動車から戦車まで、飛行機からドローンまで、ピストルから3Dプリンターまで、多くの文明の利器がずらりと揃う。ここからも危険な道具が次々に派生した。

いま、道具は統合化に向かっている。コンピュータがカスタマイズされるにつれ、どんな道具もだんだん多機能をめざすようになってきた。その代表がスマホである。スマホは電話であって辞書であり、ノートであって葉書であり、カメラであって報知器であり、新聞であってお財布なのである。道具の来し方行方を考えることは、文明の光と影の意味を問うことになる。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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