館長通信

写真:中道淳

No.682023/10/15

動画、イリュージョン、ゲシュタルト

4階の本棚劇場では、定時にプロジェクション・マッピングによる映像が見られる。本棚そのものがスクリーンになっているので、まるで本棚から本たちが飛び出てきたり、動きまわったり、突然に雪崩落ちたりするようで、迫力がある。音楽や音響も連動する。

室内で投影される映像としては、かなり巨きい。ソフトもいろいろ用意されている。まだご覧になっていなのなら、ぜひ堪能していただきたい。

私たちの視知覚には、もともといろいろな生理学的な限界がある。可視光の波長しか認知できないし、赤外線と紫外線に属する色彩も掴まえられない。平均的な視力の持ち主でも遠方までは見えないし、暗がりでは誰もが見えにくくなる。網膜には盲点もあって、そこを通過する視情報は認知できない。視情報が大脳の第一次視覚野に送られる出口がブラインド・スポットになるからだ。

とくに動体視力はよほどのアスリートやプロボクサーでないかぎり、多くの動物にくらべて、そうとう落ちる。左右の動体と前後の動体でDVA(Dynamic Visual Acuity)は異なるのだが、どちらも対象物のスピードが上がると、とたんに認知できなくなる。

われわれの知覚能力には限界があるのだが、だからつまらないのではない。こうした視知覚の限界をいかして、映画やアニメの動画づくりの基本がつくられた。1秒間にどのくらいのコマを送れば連続的なものに見えるのか、KVA(Kinetic Visual Acuity)をめぐる技法がいろいろ研究開発されてきたのだ。物理的な刺激がわれわれの知覚領域では別様の変換をおこすことを逆活用したものだった。プロジェクション・マッピングもそのひとつである。

われわれの知覚は、木を見ると森が見えず、森を見ていると木が見えないようになっている。また、さまざまな体制感覚や運動知覚が意外な錯覚や錯視をもたらしている。このようなことから、ドイツの心理学者や神経生理学者たちによって「ゲシュタルト理論」が組み立てられた。

ゲシュタルトとはドイツ語の「形態」という意味である。ゲシュタルト理論が訴えたことは、われわれには対象世界を部分の総和としてではなく、そこに現前する特徴を全体のまとまりとして知覚しようとする強い傾向があるというものだった。そのため、細部が釘でできていようと、苔でできていようと、全体の絵柄が大きな目玉になっていれば目玉を、北斎の波になっていれば波を受け取っていく。ときにはイリュージョンを受け取ることもある。

こうしたゲシュタルト知覚は、視覚中枢が対象領域の全容を捉えようとするとき、空白部分や未確認部分を不確定情報で補おうとするフィリング・イン(知覚的充填)がおこるからだということも、わかっている。

われわれは自分たちの知覚の司令部の管理能力がしばしば曖昧で、不確かになっていることを知ってはいないのだ。少々デキの悪いボスたちが管理しているということを、忘れている。そこで、映画やアニメやプロジェクション・マピングが司令部の代わりを買って出るわけだ。あるいはまた、ポップ、アーティストやロック、コンサートで現出してほしいゲシュタルト知覚の演出を手助けするわけである。ミュージアムには、そういう「新たなゲシュタルト」をみなさんに届けるというお役目もある。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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