館長通信

写真:中道淳

No.672023/10/01

フラジャイルなリスクについて

世界はいつも危険に晒されている。山も川も町も学校も、いつだって危険に晒されている。そうではあるのに、どこでどんな戦火がおこるのか、いつ地震がやってくるのか、どんな無差別発砲がおこるのか、ハリケーンや線状降水帯がどう動くのか、予想はつきにくい。感染症ウイルスの波及や株価の急激な変動は、たいてい突然にやってくる。

世界はとことん不確実で、すべては不確定で、世の中は非線形にできている。「まさか」がおこるのは、避けられない。そこで、こうした危険を「リスク」(risk)と捉え、その危険度に応じたリスクヘッジを試みるようにしてきた。また、危険に晒されたときのリスクマネジメントを怠らないようにしてきた。政府も自治体や役所も、会社も大学もマスメディアも、リスクの防衛には(つまりリスクヘッジには)神経を尖らせる。

一方、われわれは些細なことや細部の変化については、ほとんど気に留めない。そういう習慣の中にいる。雨がちょっと温かい感じがしても、いつもの味噌汁が少し辛いような気がしても、コンビニのおにぎりの数が多くても少なくても、届いた葉書に局印のスタンプが捺してなくとも、あまり気にならない。

けれども、いつも使っているコップがほんの少し欠けていたり、飼い猫が僅かに歩きにくくしていたり、親友の声が少々嗄れていたりすると、すぐ気がかりになる。自分でも意外なこの僅かな欠損の感覚を「フラジリティ」(fragility)という。「壊れやすさ」という意味だ。

フラジリティは災害や戦争のような外的リスクではないけれど、われわれの感覚の膜をやすやすと破ってくる。この膜は心につながっているので、フラジャイルな体験によっては、しばしば心が傷む。

たった一言の暴言や口さがない風評がフラジジャイルな体験になることも、少なくない。これは「ハラスメント」(harassment)と呼ばれてきた。セクハラ、パワハラ、モラハラなど、いくつものハラスメントが規定されている。いじめ、嫌がらせ、差別、強制、虐待など、当事者にとってのフラジリティに応じて議論もされてきた。

「ちょっとしたことは大事に至らない」と思うのは、当事者ではない者たちの勝手な見方である。突き指をしても眼にゴミが入っても、本人には何かがうまくいかなくなることがあるように、ちょっとした「からかい」や「お遊び」が本人には辛いものとなり、癒しがたいトラウマになることはかなりおこりうる。どんな行為や体験がどんなハラスメントであるかは、なかなか決めがたい。

それでは、[リスク]と「フラジリティ」と「ハラスメント」は同じものなのだろうか。どうも違うようだ。これらは別々に議論され、別々に法制度化されてきたけれど、そろそろそうはいかなくなっているのではないか。しかし、これらをまるごと検討する思想は、まだ組み立てられていない。

おそらく、これらは深く組み合わさって捉えられたほうがいいと思われる。体と心はつながっている。一蓮托生なのである。リスクとフラジリティも一蓮托生だ。それならフラジャイル・リスクというものや、フラジャイル・ハラスメントもあるはずだ。

いま、世の中ではさまざまな事件や風評が当事者の心を苛(さいな)んでいる。そのぶん、何かの腐食が進行している。その一部はネットによる拡散にもなっている。そろそろ新たな思想が「被虐の現代史」のど真ん中に登場すべきなのである。これはガバナンスやリスクマメジメントの問題であるとともに、現在日本の問題で、現代思想の問題である。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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