館長通信
写真:中道淳
No.662023/09/15
ユートピアとディストピア
いま多くの映画やアニメで、ユートピアとディストピアの葛藤が描かれることが多くなっている。理想的なユートピアを求める話が、どこかでその逆のディストピアに結びついたり、壊滅的なひどい状況に追いこまれたのに、そこに一縷の安寧が訪れたりするという話が目立つのである。『バッドマン』も『もののけ姫』も、『君の名は』も『鬼滅の刃』も、この葛藤を描いている。
トピアとはギリシア語の場所のことをいう。古代では、特定の場所(トピア)におこることをトピックとみなしていた。そのため特定の場所におこるトピックをつなげていけば物語ができあがると考えられ、実際にもギリシア神話もギリシア悲喜劇も、トピックをつらねた典型的な物語が作成されていった。
しかし、どこにあるかもわからない場所ではトピックが定まらない。そこで、そのような場所はトピックが特定しないユートピックな性質をもつだろうとみなされ、その場所をユートピアと呼ぶようになった。天国やエデンの園や浄土がユートピアだった。
ユートピアがあるのなら、その逆の場所があってもおかしくはない。そこは悪魔や怪物や邪鬼が君臨する場所で、ユートピアとは真逆の価値観が支配する。地獄や魔界があてられ、ディストピアとみなされた。中世最大の文学者であるダンテは大作『神曲』を書いて、地獄篇と天国篇を対比的に描いた。
以来このかた、多くの小説や演劇やオペラで、ユートピアとディストピアの対立と葛藤がさまざまに試作されたのである。
ところが18世紀になると、地理上の発見がさかんになり、天国や地獄ではなく、地上のどこかに未知の場所があるのではないかという幻想がふくらんでいった。そして、そういう場所でおこる奇妙な物語を紡ぐ者たちがあらわれた。その先駆者に『ガリヴァー旅行記』のスウィフトや『ロビンソン・クルーソー漂流記』のデフォーがいた。二人はサイズが異なる国や無人島をとりあげ、そこがユートピアともディストピアともつかないことを示そうとした。
ここから先は一騎当千だ。ありとあらゆるトピアが描かれ、たとえばポーはナイフを入れると水が切れる川のある場所を描き、カフカはそこに辿りつこうとしても決して到達できない城がある場所を描いてみせた。また記憶違いの場所や思い出せない場所を小説にするジョイスやプルーストといった作家も次々にあらわれた。もはやユートピアもディストピアもどこにでもあるものになったのである。
やがてSFやマンガが登場してくると、想像もつかないような異次元や超越的な人格や怪力をもつスーパーマンが物語を跋扈しはじめた。時代はここからふたたびユートピアとディストピアの対比に向かって動き出す。とくに登場人物たちの「変身」や「変形」が自在になっていった。
いま、ユートピアとディストピアはどこにあるのだろうか。コンビニや通勤電車やホテルの一室にも、またスマホの中にも、こうしたリアル=ヴァーチャルの脅威と怪異が忍びこんでいるようだ。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)