館長通信

写真:中道淳

No.652023/09/01

知覚を宙吊りにする

1868年のマネの「バルコニー」と1887年のスーラの「サーカスのパレード」が、20世紀の幕開けを記念するセザンヌの「松と岩」となって、その後の美術史とミュージアムの展示法を変えた。いったい何が変わったのだろうか。知覚が宙吊りになったのだ。

私たちの知覚は世界をユークリッド幾何学のように体験できるようになっている。手前の物体は大きく、遠くの山は霞み、平行線のはずの線路は遠くで交わるように知覚する。このユークリッド的な知覚をいかして、ルネサンス期にアルベルティが遠近法を発見して、チマブエやダ・ヴィンチがこの知覚体験を精妙に美術作品化していった。

けれども印象派の画家たちは、それでは飽きたらない。自分たちの知覚が感じるイメージ(インプレッション)に感応できるように、対象世界や眼前の光景を描こうとした。絵画の中の光景を変形させたのではない。絵画を見る者の知覚に訴えて微妙に描き、「糸杉」や「ひまわり」や「星」を胸の中に近しく侵入させたのだ。

やがてマチスやルオーのフォーヴィズムの手法、ブラックやピカソのキュビズムの手法が20世紀初頭に連続的に登場して、絵画の中に構成される知覚そのものを動かした。それで何がおこったのか。私たちはマチスやピカソの美術作品を、絵画に示された新たな知覚とともに見るようになったのである。 

このスーラからピカソに及んだ変化を、美術史家のジョナサン・クレーリーは『知覚の宙吊り』という本の中で大胆に解読してみせた。絵画の中の知覚構成が変化しただけではなく、ミュージアムでこれを見る者も「知覚の宙吊り」を経験するようになったとみなしたのだ。

私たちの知覚は「注意」(attention)によって始まっている。注意のカーソルの動きからすべてが始まる。幼児がガラガラに関心をもつのも、ファーブル先生が昆虫の動きを観察するのも、恋が芽生えるのも、米津玄師の歌の展きぐあいに惹かれるのも、いずれも注意のカーソルが何に動いたかに始まる。

とはいえ注意はいつまでも続かない。私たちの知覚の興奮度は「刺激と反応の関数」の中で減衰するようになっているからだ。いつまでも最初の刺激にとらわれていては、次の認知や行動に向かえない。

そこで、20世紀の多くのポップカルチャーやメディアクリエイターは、知覚体験そのものを別の次元に移行させようと考えたわけである。つまり「宙吊り」の次元を用意することにしたのだった。

こうして映画やテレビの演出が生まれ、目立った建築物が設計され、ゲームやアニメが異次元に人々を誘うようになった。クレーリーは、そのことはすでにスーラやピカソから始まっていて、その「知覚と注意の異次元化」がミュージアムにも及んでいたことを解読したのである。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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