館長通信

写真:中道淳

No.632023/08/01

思想の習合、文化の編集

日本は東アジアの一隅にある。日本各地にはたくさんのアジアの朋友が住んでいるし、たくさんのアジア人が観光に訪れる。日本はアジアなのである。

けれども昨今は中国の一帯一路構想、南海支配、台湾の統合などが推進され、また韓国と北朝鮮が対立したまま日韓関係が一喜一憂の断続にあるなか、日本がどんなスタンスでいればいいのか、なかなか定まらなくなってきた。日本海や東シナ海がどのくらい熱いのかも、あまり理解されていない。

徳川中期に山崎闇斎(あんさい)という儒者がいた。孔子、孟子、朱子の儒学を教え、朝鮮李朝の儒教の解釈を積極的にとりいれ、京都に私塾をひらいた。早くに「崎門」(きもん)と親しまれ、門下に6000人を゙輩出したといわれるほどだったが、ある時期から「垂加(すいか)神道」を提唱した。儒者でありながら古来の神道にとりくみ、独自の理論や儀礼を新たに組み立てたのだ。

たいへんめずらしい例に思えるかもしれないが、そうでもない。日本はずうっと神仏習合や禅儒共振が得意だった。神を寿ぐ神祇と仏の教えを伝える仏教とは9世紀ごろから習合してきたし(神宮寺や神前読経)、鎌倉時代に広まった五山の禅には儒学がとりいれられていた。日本的編集が効果的に発揮されたのだ。

おそらく闇斎も、日本の神道をとりこんだ儒学が東アジアの共通の教えになるだろうと考えたのであろう。

中国や朝鮮から入ってきた思想や文化はおびただしい。儒教も仏教もそうだったし、稲作、漢字、鉄、お茶、朝顔、金魚もそうだった。律令や活字印刷も東アジアからやってきた。やってきたのではあるが、日本はそれを改良したり工夫を加えて、仮名にしたり障子にしたり、楽焼にしたりコシヒカリにしていった。利休の茶の湯もそのひとつ、闇斉の垂加神道もそのひとつだ。利休の侘茶は中国の文人茶とも朝鮮の茶道とも違っていた。習合や編集を試みたからだ。

明治維新で西洋文化が流れこんでからも、それなりの工夫は続いた。たとえば内村鑑三は「二つのJ」によるキリスト教を提唱した。「二つのJ」とはJesusとJapanのことだ。日本的キリスト教というものを模索したのである。内村はアメリカ留学時にキリスト教の実態を見て、これは日本社会には合わないとみなしたのだ。日本人にとってのバプティスマは、日蓮や中江藤樹や西郷隆盛に見習ったほうがいいと感じて、かれらの言動の解説をもって英文の『代表的日本人』を著した。

いま、日本ではグローバル・スタンダードに多くの基準を合わせるようになった。会計制度も金融ルールも、民主主義の規範もスポーツルールも、グローバル・スタンダードに準拠する。とくにアメリカの言い分に従うことが多い。

プロ野球で、それまでは「2ストライク、3ボール」と言ってきたのを「3ボール、2ストライク」と言いなおすようになったのは、まことに些末なスポーツルールの追随のようであって、実は現状日本の体たらくをあらわしているのだと、私は見ている。

一事が万事でアメリカ追随なのだから、東アジアに対する配慮やそこからの工夫もほとんど試みられなくなった。利休や山崎闇斉や内村鑑三がいないだけでなく、社会と文化にまたがる「習合」や「編集」の方法を忘れてしまったのである。なんともさびしいことである。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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