館長通信

写真:中道淳

No.592023/06/01

LGBTQの受け止め方

日本の政府は同性婚を認めるかどうかで、いまだに混乱したままにあるようだ。メディアやネットでは、日本はいつまで性差別をしつづけるのかという憤慨の口吻がさめやらない。LGBT問題としてニュースにのぼるようになってそこそこ時がたつのに、いっこうに議論が進捗しないのだ。

なぜ進捗しないのか。LGBTという摑まえ方が理解されないからである。LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーのそれぞれ英単語の綴りのイニシャルを並べたもので、「男と女」という二つの性別(ジェンダー)にあてはまらない生き方の権利を主張するグループから発案された新しい呼称であった。新しい呼称ではあるが、すぐに察しがつくように、この呼称は「新たな性別」の誕生を訴えているのではなく、性はもっと多様なものだろうということをアピールしている。

ところがこの「性の多様性」がなかなか法治国家のしくみになりにくいと、政府が考えこんだ。もう少しわかりやすくいえば、もし国民に「たくさんの性」を認めると、何か予想のつかない事態がおこるのではないかと危惧しているのである。結婚制度や家族制度や教育制度に変調をきたすのではないかという危惧でもある。

しかし変調をきたしているのは、性的差別がなくならない社会の現状のほうなのである。人種差別、いじめ、セクシャル・ハラスメント、家庭内暴力、他人攻撃によるフレーミング、虚偽の報知、過度の誹謗などが取り締まりの対象になっているなかで、自身のセクシャリティが認められなかったり、揶揄されたりする不愉快はなかなかなくならない。

そんななか、LGBTはLGBTIとかLGBTQとかというふうに、イニシャルをふやしつつある。Iは「インターセックス」のことを、Qは「クィア」のことをさす。クィアは「変な」という意味をもつスラングな英単語だが、日本でいえば「ヘンタイ」とか「おかま」と詰(なじ)られてきた性的傾向の持ち主のことをいう。

そんな差別用語が新たにQとして浮上してきたのは、そのように詰られた当人たちが「おかまで何が悪いのよ」「あたしたちはQなのよ」としっぺ返しに出たからだった。+はこれらのどれでもなく、どれでもあるような傾向だ。

このようにLGBTがあらわしつつある動向は、いまなおマイノリティからの発信ではあろうものの、従来の男尊女卑や良妻賢母型の社会文化を揺さぶり、変化させつつある。そのひとつが同性婚なのである。

LGBTを研究するクィア・スタディーズという学問領域もできている。中身は広い。神話研究からアート、カリカチュア、メディア、パフォーマンス、ファッション、お笑い、サブカル研究に及ぶ。海外の研究者たちは、日本のマンガやアニメが早くから大胆なLGBT的な表現力を見せてきたことに注目し、そういう日本がLGBT後進国であることを不思議がっている。

以下はおまけ。実は私がこのミュージアムの構想にかかわることになったとき、その最初の最初に荒俣宏君とのあいだで交わした共通イメージがあった。それは「変なミュージアムにしたいねえ」というものだ。図書館として、博物館として、美術館として「Qなミュージアム」でありたいということだ。

しかし「変」は突飛なもの、奇矯なものだと受けられる宿命ももっている。「変」はあくまで「例外」にしか映らない。ミュージアムはニュースと同様、珍しい例外を見せる使命と機能をもっているのだが、「変」そのものを全面に出すにはいかないようである。とはいえ、角川武蔵野ミュージアムでは少しだけ「変」もまぜて展示しているので、是非とも目を凝らしいただきたい。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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