館長通信
写真:中道淳
No.552023/04/01
リーダーシップ、どうする?
誰もがリーダーになるわけではない。リーダーになりたいと思っているともかぎらない。だいたい自分がどんなチームのどんなリーダーになるのかなんてことは、まったく見当もつかないことなのだ。
ところがジンセーは意外の連続で、学校で給食当番をしたり、クラブ活動をしたり、会社でお役目がまわってきたり、ご近所づきあいをしたり、その幹事をするハメになったりしているうちに、誰もが小さいリーダーとなり、ついではいつのまにか中くらいのミドルリーダーや部長や所長になっていく。そこでハタと困る。さあ、このあとどうすればいいのか。いったい自分はどんなリーダーシップを発揮できるのか、とても悩ましい。
いまNHKの大河ドラマでは『どうする家康』が放映されている。三河の領主となった家康が、激しく流動する戦国時代後期の波濤のなかで、いちいち行動方針を決めなければならない立場になっているのに、どんな決断にも迷うのだ。ここはどうする? 次はどうする?
そんな家康が徳川幕府をおこし、長期政権を維持する日本のてっぺんのリーダーになるわけである。何度も「どうする?」と迷った家康がどんな才能と工夫によってリーダーになれたのか。その経緯は古沢良太脚本の大河ドラマが明かしていくのでそちらを見られるといいのだが、歴史が証してきたのは、リーダー像には、信長のような独走型、秀吉のようなナンバー2型、家康のような熟慮型があるということだった。
熟慮型のリーダーが重視していることは、家康の例を含めてかいつまめば次の3点になる。
(1)世の中では味方や敵はつねに変化する、(2)身近なチームを複数化しておく、(3)実現すべき目標は外からやってくる、この3点を肝に銘ずることが家康流のリーダーが心掛けていることだった。
味方や敵が一定ではないというのは、いつだって裏切りがおこるということではない。どんな時代おいても味方(賛成)と敵(反対)は必ずといってよいほど勝手に変化しながら社会を構成していくということだ。
身近なチーム(家康の場合は家臣団)を複数のチームにしておくのは、内部の多様性を準備しておけば、意見の異なる外部の多様性に対応しやすくなるからだ。実現すべき目標が外からやってくるというのは、イノベーション能力や自己改革力がない無責任なリーダーが言いそうなことに感じるかもしれないが、必ずしもそうではない。いくつもの目標候補から何を選ぶかは、既存の資源力や技術力だけでは決まらないということを示唆している。
こう見てくると、熟慮型のリーダーシップは「内と外」の接合面に発揮されていくということになる。いわば縁側や軒下をどういうふうに用意していくかということが大事なのである。
とはいえ、こうした家康的な「どうする?」ばかりが組織やプロジェクトやスポーツのリーダーの資質となっては、おもしろくないかもしれない。時に予想外な計画を実行するリーダー、価値観を転倒していくリーダーも、ほしくなる。いま南米や東南アジアや中東やアフリカで求められているのは、そうした大胆なリーダーである。私は、日本の文化組織や文化プロジェクトには、そういうリーダーが待望されているような気がしている。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)