館長通信
写真:中道淳
No.452022/11/01
SNSは「世界」なんだろうか
ウクライナが砲撃されている最中も、マンガを読むときも、神田の焼き肉屋を探しているときも、大学の哲学の授業中も、台風接近中も体の調子がおかしいときも、株価の動向を見るときも恋人との日々に悩んでいるときも、みんなスマホを手から放さない。
世界中の誰もが、どんなときもスマホを使っている。2002年のフレンドスターで本格化して、04年のフェイスブック、06年のツイッターで一挙に広まった。広まったとたんに、体から離れなくなった。GAFAが背後にいたことも大きい。
もともと会員サービスをあらわすものだったSNS(Social Networking Service)は、いまではウェブ上でサービスされている大半の日常コミュニケーションをあらわす用語になった。英語圏では「ソーシャル・メディア」、あるいはたんに「ソーシャル」と言う。メディアが社会そのもの、世界そのものなのである。
世界がメディアによってあらわされるようになった歴史は、新聞・雑誌やラジオ・テレビの普及とともに始まっていた。けれどもこれらは専門のメディア制作者によって提供する情報を、生活者や大衆(ユーザー)が一方的に受容するものだった。それがいまでは組織と個人がまざり、プロもアマもなく、どんな瑣末な情報によっても(ガセネタを含めて)、世界が刻々変化する(あるいは変化しているかのように見える)ことになった。
この、提供と受容に区別がない世界は、しばしば「セカイ」とカタカナ表記される。セカイは誰もが勝手に出入りができる表示世界で、そこでは権威と大衆は区別されない。トランプ大統領もジョンソン首相もツイッター政治をやろうとしたほどだ。
セカイには、どんな「自分」も出入りできる。かつてメディアに自分の名前を発見することなんて、ほぼできないものだったのに、いまでは誰もがエゴサーチするほどだ。かつてアンディ・ウォーホルは「誰だって10分間だけ有名になれる」と書いたが、いまは10分ではない。ヘタをするとその記録はずっと消えない。
いったいこのセカイは何によって成立しているのだろうか。世界中の市民がつくっているとは思えない。誰もそんなことを自覚していない。多くのプロバイダーが枠組を用意したかもしれないが、特定企業がセカイを表現しているわけではない。自動的に世界の事実が集積されて成立しているのかといえば、そうでもない。フェイクニューズがしこたま混じっている。
誰だってユーチューバーになれるから、新たな才能が評価できるようになっているのかといえば、「いいね」ボタンだけがまかり通っているだけで、新たな様式や価値観が生まれていくわけでもない。
武器を発射できないし、殺戮はできないけれど、心が蝕むことはしょっちゅうおこる。ウイルスもとびかう。だからこのセカイはとうてい安全だとはいえない。それなら無法や無謀が広まっているのかというと、そんなこともない。適度に締め付けがある。中国では政府に都合の悪い情報は即刻抹消される。
誰も責任をとっていないセカイなのである。しかもこのセカイには「自分」も入っているので、すべてがリアル然とする。
私はこのようなセカイがいったいどんな文明をあらわしつつあるのか、ずっと気にしてきたけれど、いまのところ明確な説明ができないでいる。実に困ったことである。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)