館長通信

写真:中道淳

No.372022/07/01

お寺というミュージアム

西洋美術史は長らく教会に依存してきた。ロマネスクやルネサンスやバロックの絵画や彫刻の傑作の多くは、教会が注文してきたものだ。もちろんメディチ家のようなパトロンもそのつど支援していた。おかげでフィレンツェに三日いるだけでも、建物ごと、夥しい数の「聖なるアート」にお目にかかれる。

日本はどうかというと、もちろん多くの寺院が仏像や仏画を収納してきた。為政者や権門によるパトロネージュもあった。京都や鎌倉はフィレンツェに匹敵する「聖なるアート」をいろいろ見せてくれる。

しかしその成果を、日本はヨーロッパのようには、アートの歴史として存分に開展してこなかったように思う。また理解してこなかったように思う。お寺がミュージアムでもあったことを活用してこなかったように思う。これはいささか残念なことだ。

もっともヨーロッパの教会とは違って、お寺の中の仏像や仏画はゆっくり鑑賞できるようには配置されていない。たいていは狭いところに押し詰まっていらっしゃる。それらは仏教の荘厳様式にもとづいて配置されているので、照明を含めて、誰もがゆっくり堪能できるとはかぎらない。お参りができればよかったのである。しかし、それではゆっくり鑑賞するというわけには、いかない。

私の友人の展示プランナーは、東京国立博物館の「国宝 阿修羅展」のとき、阿修羅像を展示室の真ん中に設置して、その周囲を誰もがぐるぐるとまわれるようにした。たいそう好評だった。最近は博物館や美術館での仏教美術の展示も、そういう工夫をいろいろ試みるようになっている。

けれども、ここにはまだちょっとした不満がのこるのである。二つだけあげておく。

ひとつは、日本人の仏教理解があまり進んでいないままにあるということだ。ヨーロッパのキリスト教美術や聖像理解については、パノフスキーらのイコノロジー研究が普及したせいもあって、学校でもかなり詳しいことを学ぶようになった。日本はそこまで及んでいない。だから如来像と菩薩像と天部の区別がつかず、光背や須弥壇の意味が掴めない。

もうひとつは、お寺の展示に工夫がないということだ。信仰の対象だから美術展示のようにはいかないのはそうだとしても、それでも宝物館や資料展示室も設けられている場合も少なくない。その展示がおざなりなのだ。一口にいえば昭和40年代で止まったままなのだ。そのテイストが本堂や金堂でも放置されたままなのだ。

予算も人手もかかることである。安易な改善を勧める気はないけれど、私は21世紀の日本に「仏教の力」がなんらかの方法で蘇ってほしいとも思っているので、そろそろ何かをしたいのだ。

「仏教の力」がどういうものかというと、一に、世界を「一切皆苦」(いっさい・かいく)と見たこと、二に、諸法は自己中心的にはできていないと喝破したこと、三に、他者の救済を率先したことだった。これが大乗仏教の考え方だ。

この考え方は、もちろん信仰に生かされてもいいが、メディアやアートの世界に活かされてもいい。メディアやアートは他者とのコミュニケーションを希(ねが)うものなのである。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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