館長通信

写真:中道淳

No.362022/06/15

父の「ええなあ」、母の「きれいやな」

私は「編集工学」というものを探索してきたのだが、最近は二つのことを心掛けるようになった。ひとつは編集のルーツを世界史や日本史の奥に求めることで、もうひとつは私の記憶の奥に編集の痕跡を捜し出すことだ。

父は近江の長浜から京都に出てきて、昭和のはじめにごく小さな呉服屋を立ち上げた。呉服屋といっても悉皆屋(しつかいや)に近いもので、手元には何もない。注文がくるたびに、注文主の趣向に応じて白生地も染めも織りも帯も、なんであれ一から集め、それをいろいろ組み合わせて「たとう」に包んで、「こんなところでよろしおすか」とお客さんに納めるという商売だ。だから一から十までが「悉皆屋さん」なのである。

父が江州商人文化の血をもっていたのに対して、母は京都の老舗呉服屋の大番頭の娘で、生粋の京女だった。女学校では古典を読んだり文章を書いたり絵を描いたりするのが好きだったらしく、子供の目でもどこか夢を見ているようなところのある人だったけれど、父に見染められて結婚し、お店の手代(てだい)さんたちとともに悉皆屋を手伝うことになった。

私はそういう「おぼつかない商い」をしている松岡商店とともに育った。昭和19年生まれなので、少年期はたいていの物資が手に入りにくく、学校での給食はGHQが提供する脱脂粉乳(ミルク)とコッペパン(食パン)とおかず2品くらい、本物のバターが付くのは1カ月に1度だった。若い諸君には意外かもしれないが、当時の日本列島は連合軍にまるごと占領されていたのである。沖縄は日本ではなくアメリカだった。私は、そんな敗戦日本が少しずつ立ち直っていく日々を見ながら育った。

もっとも、物資に恵まれていないということは少しも苦痛ではなかった。手にするもの、見るもの聴くもの、出会うもの、触れられないものが、ことごとく大切に感じられるということで、椿が咲いて落ちるのも沈丁花が匂うのも、ラジオから聞こえてくる音楽や落語も、近所のお祭りで出会う金魚も虫も、あまりにめずらしいので、その様子の一部始終を細大もらさず吸収していた。

両親が二人とも俳句が好きだったので、小学3年生くらいから大人にまじって句を詠むことになるのだが、それは俳句をつくるというより、自分が見聞した「びっくり」を五七五のメモにしていくというに近かった。「赤い水のこして泳ぐ金魚かな」。これが小学5年のときの句だ。

長じて私は「編集工学」という生意気な領域を拓いていくことになり、いろいろたいそうなことを企ててきたかもしれないが、そのもともとが何から始まっていたかとふりかえると、すべては父と母がもらしたもの、父が「ええなあ」と言い、母が「きれいやな」と言っていたものに、目をまるくしたことに起動していたのではないかと思う。

父は南座の歌舞伎や神社仏閣や先斗町に私を連れていき、そこで私に教えるというよりも、自分で「ええなあ」あるいは「これはあかん」を連発するのである。母はナチュラリストで表現派だったので、何が「きれいやな」かであるかを、たいていその場であらわしてくれた。二人の基準が妥当だったのかどうかはわからない。けれども私は、それを通して染め物の模様や先代吉右衛門のセリフまわしの絶妙に出会い、沈丁花の香りのうつろいや日本画の墨の霞みぐあいの微妙を知ることになったのである。ミュージアムにも、そんな文化の痕跡を出入りさせたいと思っている。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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