館長通信
写真:中道淳
No.352022/06/01
ダンシング・ヒーロー
世界中でダンスが元気だ。それが一挙に日本にも及んでいる。小学生がブレイクダンスを踊るし、女子高校生のダンス大会は工夫に富んだシンクロダンスを披露しあって大いに盛り上がる。数年前、登美丘高校ダンス部はakaneさんが荻野目洋子の『ダンシング・ヒーロー』をバブリーダンスに振り付けて優勝をさらい、紅白歌合戦にも呼ばれた。
私の若い頃はダンスはダンスホールやディスコテックで踊るものと相場が決まっていた。それがいまは街頭でも学校でも踊る。
日本には昔から念仏踊り、風流踊り、盆踊りなどの伝統があって、町や村の単位でみんなが踊ることを楽しんできた。祭りと踊りは切っても切れず、阿波踊りや郡上踊りはいつ見ても興奮させられる。浴衣(ゆかた)の意匠も目を奪う。それが若い世代に採り入れられて、いっときは原宿の「竹の子族」や札幌の「よさこいソーラン」のような衣装を凝って思いきった街頭ダンスを見せる集団パフォーマンスに及び、そこから「一世風靡セピア」のような選り抜き男性グループも登場してきた。
一方で、シルヴィ・ギエムの天才的なコンテポラリーダンダンスエやマイケル・ジャクソンの異能なポップダンスが世界に轟くと、ロックからヒップホップまで、みんなじっとしていられなくなったのである。
2021年の東京オリンピック開会式で世界中の話題を攫ったのは、森山未來君の2分間の「鎮魂ダンス」だった。私の『日本という方法』を大事にしながら踊ったと言っていた。森山君はそれ以前から、ダンスをホワイトキューブのミュージアムやギャラリーの中で見せるという斬新な試みをしつづけてもいる。いまやダンスはアートなのである。
私の親友に田中泯がいる。どこでも踊るし、誰かの家の中でも踊る。ノーマン・メイラーやロジェ・カイヨワやロラン・バルトの家でも踊った。そういう名付けようのない踊りを、田中は最近では「場踊り」と名付けている。
ダンスは私たちの体が奥深くに内包しているものである。だから幼児たちはぬいぐるみが出てきても、CMを見ていても、すぐにちょこちょこ踊りだす。幼児だけではない。古代、どんな集落や共同体にもシャーマニックな踊りが発生し、そこにリズムや所作がくっついて、その地域や風土に合ったダンスが生まれてきたのだった。盆踊りやリオのカーニバルや沖縄のエイサーはその延長だったのである。
しかしダンスは額縁に入らないし、展示もできない。だいたい残らない。そこでドガやロートレックのように踊り子たちを絵画やポスターにするという手に出たものだ。またギルバート&ジョージのようにパフォーマンスを凍結したような作品にするアーティストも出現した。
けれども、これからはそういう方向ではなくて、ダンサーがもっと自在に展示空間を出入りするようになってもいいのではないかと思われる。映像や電子装置と組み合わさっていく可能性もある。ライゾマティクスやチームラボはすでにさまざまな人体のダンシングの動向を電子映像に組みこんできた。ダンシング・ヒーローはどこからも生まれうるし、新たな記憶と記録に挑戦しつづけるものになりそうなのである。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)