館長通信

写真:中道淳

No.342022/05/15

わける・わかる・かわる

父は「ようわかったか」とか「わからん奴っちゃなあ」とよく言った。「ノコギリは引くときに斬るんや、わかったか」「新聞はもっとゆっくり読んだほうがええ。わかったな」「忌中ってどういうことか、わかるか」。いつも「うん」と答えていたような気がするが、いったいどうなると「わかる」なのか、なかなかわからなかった。

日本語では「わかる」は「分かる」「判る」「解る」と綴る。三つのちがいは「分別する・分類できる」、「判断する・判定する」、「理解する・了解する」のちがいだと説明される。

教育や学習の現場では、生徒や学生に理解を手渡すことが金科玉条になっている。教師もそのためにさまざまな努力を重ねる。動物行動学では動物が何をもって「わかる」状態にしているかを研究し、人間の心を解明する認知科学でも、「わかる」とは何かということが長らく大テーマになってきた。

そもそも文明の知は、大きくいえば二つの流れでできてきた。ひとつは「対象を分類していく」というもので、「分ける」ということによって既知をふやし、その分類をもって社会を構成し、学問や知識を使えるようにし、制度を変遷させてきた。どんなものもクラスやグループに分けられれば、それぞれにラベルが貼れるということだ。

もうひとつは、われわれはつねに「未知のものを抱えている」という考え方で、既存の分類や分析ではわからないことがいろいろあるという見方をとる。世の中には「分けられないもの」もあるということだ。ここからは発明や発見やイノベーション、また芸術や冒険や遊びが生まれてきた。作家やアーティストは「わからないもの」、たとえば恋愛感情や自然の美しさや世の中の理不尽をどう表現できるかということに向かってきた。

禅の近代的解釈を率先した鈴木大拙は、しばしば「分けて、分けない」のがよろしいと言っていた。そう書いた色紙も残っている。スティーブ・ジョブズが大いに気にいった。

「分けて、分けない」なんてまさに禅味に富んだ謎めいた言い方で、まるで矛盾を容認しているようにも感じられるだろうが、大拙は西洋の知が分類知に走りすぎてきたことを諌めたのである。分けさえすれば「わかった」がつくれるというやりかたは、限界があると告げたかったのだ。人間の心や、文化や芸術はそんなふうにはできていないと何度も強調した。

私は編集工学を学んでもらうために、イシス編集学校というネット上の学校をつくってきた。3万人以上が学び、780人の師範代が育っている。一言でいえば「意味」を自由に編集できるようにする学校だ。われわれは自分にこびりついた既存の意味に縛られている。そこを解きほぐすのが編集力である。

私はイシス編集学校に入ってくる学衆の諸君たちに、まずもってあることを伝える。それは、編集力は「わかる」と「かわる」を一緒に実感することから始まりますということだ。この「かわる」は「変わる・代わる・替わる・換わる」である。既存の言葉や形がもつ意味はいろいろ「かわる」はずなのだ。意味は変化していくものなのだ。その「かわる」をもって「わかる」を自在にしてほしいと伝える。

またこうも伝える。「かわる」から「わかる」のだし、「わかる」は「かわる」を広げることなのです、と。ミュージアムも、たえず「わける・わかる・かわる」を試みる。その変化を愉しんでいただきたい。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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