館長通信

写真:中道淳

No.332022/05/01

電子社会が見せていること

きのう、ウラジオストックから「ロシア人の明日」を憂うるメールが入っていた。私のかつての生徒だ。おととい、ベルリンの友人から「今後のドイツの迷い」を告げるツイッターが送信されてきた。GAFAのヨーロッパに与える影響を調査研究している知人からだ。その前は、近江の日本画家を代表する山元春挙が長年かけて造った数寄屋書院で開かれた勉強会の報告が、詳しい画像とともに送られてきた。

コロナ禍のもと、オンラインの打ち合わせもふえてきて、多くのミーティングやコミュニケーションがなんだか空中で明滅しあい、放電しあっているような感じになってきた。それで何か大事なものが変質してきたのかというと、おそらくは「熟考した考え」が交信されなくなったような印象があるけれど、そんなことを深く検討するまもなく、電子化された情報があいもかわらず高速で溢れまくっていくばかりなのである。

インターネットが世界中のスマホとつながり、みんながSNS状態になれる高速高密度の情報コミュニケーション社会になって、いまや大統領から村のおばあちゃんまでがツイッターの発信者で、小学生からプロレスラーまでがユーチューバーになった。誰もがユビキタスで(いつでもどこにでもいて)、誰もがオーサー(著作者)で、誰もがクライアント(顧客であって患者)になりつつあるわけだ。それもかかわらず、この高速電子交信状態がいったい何をおこしつつあるのかというと、その答えはあきらかではない。

先だって、そのことをめぐる『電子の社会』を上梓した。角川ソフィア文庫のシリーズ「千夜千冊エディション」の24冊目にあたる。私は2000年から今日まで、ウェブの片隅に「千夜千冊」というさまざまな本の感想録を連載してきた。これまで1800冊ほどを採り上げた。

『電子の社会』はその中からコンピュータ科学、プロトコルの意味、ネットワーク社会の特徴、サイバネティクスの狙い、ロボットやサイボーグの変遷、人工知能の長所と短所、Z世代の意識の問題などに特化した本を30冊ほど選んで再構成し、それなりに推敲してみたものだ。概略、次のようなことを説明してあるので、関心がある向きはお読みいだきたい。

(1)スマホに出入りしている情報はすべてデジタル化されているが、そのこと自体に「コンテンツ」や「意味」はない。(2)コンテンツや意味は、発信者の「情報の組み合わせ具合」から送信ボタンとともにピストルのように飛び出してくる。(3)こうしてネットには膨大な「文脈」が溢れていくのだが、そこでは発信者と受信者が同一なので(おまけに半ばは匿名なので)、あたかも文脈を共有したかのような錯覚が生じる。

(4)ネット上の情報の出し入れはID管理のもとでコンピュータ・プロトコルとネット・フィルターにもとづくため、自由なフォーマットは許されない。(5)とくに協調フィルタリングをはじめ、さまざまな自動調整がおこなわれているので、人気サイトが上位を占めるようになる。フィルター・バブル状態である。

(6)こういうデジタル社会では「評判」(いいね)がすべてを律し、本気な「評価」はめったに浮上してこない。つまり本気の価値観は形成されにくい。(7)では、これらの動向がどんな世界観をもたらしつつあるのかというと、残念ながらまったく検討されていない。(8)おそらく世界観をいまだ提案できないまま、行き先が定かではないメタヴァースが少しずつ分厚くなっていくにちがいない。こんなことでいいかというと、いいはずがない。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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