館長通信
写真:中道淳
No.322022/04/15
その土地が語るもの
どんな土地にもゲニウス・ロキ(土地力)がある。本ミュージアムがある所沢は、埼玉県西部の武蔵野台地に位置し、南部には狭山湖や狭山茶で有名な狭山丘陵が広がっている。武蔵野台地は数メートルから十数メートルの関東ローム層で覆われ、ハケあるいはママとよばれる斜面や崖地による独特の風景を見せている。
狭山丘陵から流れているのが、ミュージアムのすぐそばを流れる東川(あずまがわ)で、荒川水系のひとつ柳瀬川の支流にあたる。サクラタウンの名はこの東川の桜並木に由来する。
日本のどんな土地も山系と水系に特色がある。その案配がその土地の産物や物語をつくってきた。武蔵野台地と荒川水系が互いにまじった所沢も例外ではない。そもそも所沢という地名もトコロ(野老)が群生する沢地だというところから名付けられた。トコロとはヤマイモの一種のことをいう。
紀貫之にこんな歌がある。「はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ」。伝え聞く武蔵野の「ほりかねの井戸」にはめずらしい野草が採れるんだなあという意味の歌だが、これは平安中期には武蔵野の井戸が有名だったことを語っている。「ほりかね」は「掘り兼ね」で、このへんの土地の井戸は大事な水を得るためにとても深く掘ってあることを暗示している。そのため「まいまいず」とも呼ばれた。
藤原俊成も「武蔵野の掘兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり」と詠んだ。掘削が難儀だったけれど、無事、井戸が掘れて水が湧いてきたという意味だ。
土地の人たちは武蔵野特有の井戸を「まいまいず」とも言ったようである。「まいまい」はカタツムリのことで、深く掘るため井戸がスパイラルな摺鉢状になっている様子をあらわしていた。それほど「ほりかねの井戸」は特徴的だったのだ。清少納言も見逃さない。「井はほりかねの井。玉の井。走井は逢坂なるがをかしきなり」と『枕草子』に綴った。武蔵野はずっと昔から「いとをかし」なのである。
このように各地の独特の風景や産物や生活ぶりは、和歌の歌枕、昔話、民謡、童謡(わざうた)、民間信仰などに語られてきたのだが、歴史の変遷にもその特色をあらわしてきた。いまNHKの大河ドラマとして放映されている『鎌倉殿の13人』は北条氏と頼朝をめぐる物語になっているが、これは関東武士団を背景にした平安末期から鎌倉初期の歴史動向を舞台にしたもので、ここには武蔵野の武士団などもかかわっていた。たとえば草笛光子が演じる頼朝の乳母の比企尼(ひきのあま)は比企一族のゴッドマザーで、畠山重忠が引率した畠山一族とともに、当時の坂東武者を代表したキャラクターであった。
坂東武者は東国武士団とも関東武士団ともよばれていて、京都の朝廷や公家に対抗して、東国関東から荒々しく登場してきた「もののふ」のルーツにあたる。日本の歴史に新たな武力を示した一団であるが、その特徴は一族郎党の絆を重んじるところにもあった。
武蔵野の一角に出現した角川武蔵野ミュージアムが語るべき物語は、これからますます重要になるだろう。ミュージアムスタッフの張大石も、「ほりかねの井」と武蔵野と角川源義の三つをつなぐ関係線を研究中だ。ちなみに『鎌倉殿の13人』のタイトルデザインを担当した佐藤亜沙美さんには、4階エディットタウンのバナー文字のデザインを担当してもらっている。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)