館長通信
写真:中道淳
No.302022/03/15
日本語の語法で見せたい
いつも思うことなのだが、ハリウッド映画とフランス映画と日本映画は根本的に何かが違う。人物、言葉、背景、生活ぶりを超えた映像的なフランスっぽさ、演出的な日本っぽさが出ているのだ。
韓国映画と日本映画もかなり違う。似たような顔付きの役者たちによる、似たような暴力組織での葛藤を描く一匹狼のストーリーになっていても、韓国と日本の社会の違いというより、文化の掴まえ方のようなものが異なっている。吹き替えがあるので、言葉の違いを気にせず観ていても、その違いはすぐに感じる。
映画はカメラで撮る。カメラと撮影技術はほぼ世界共通だ。だから似たような映像文法になるはずなのだが、そうはならない。むろん監督の個性があるので、いちがいなことは言えないけれど、仮に監督どうしに強い影響関係があったとしても、そこにはあきらかな違いが出る。ヴィム・ヴェンダースは小津安二郎を若いときから心底敬愛し、小津安の『東京物語』に触発された映画や写真展をつくっているのだが、そこにはやはり作家の個性を超えたイメージの違いが醸し出されるのだ。
映画監督の篠田正浩さんに『日本語の語法で撮りたい』(NHKブックス)という本があった。大島渚・吉田喜重と並んで松竹ヌーベルバーグ三羽烏と騒がれ、『心中天網島』『乾いた花』などで話題をまいた。世間や批評家はフランスのヌーベルバーグの騎手、ゴダールやトリュフォーとしきりに比較したものの、本人は「いや、ぼくは日本語で撮っているんだ」と説明した。
篠田さんには「母国」があったのである。その母国のもつ何かがカメラを動かすのだと確信した。このことはエスニシティ(民族性)としての日本人が発揮されているというのではない。またジャポニスムのように、海外の目が見た日本の技法の特徴が強調されているというのでもない。 本人が日本を意識していないのに、海外から「日本的だ」と言われることとも、ちょっと違っている。建築家の安藤忠雄さんがアメリカで初めて個展をしたとき、多くのアメリカ人が「日本的だ」と評価した。けれども本人は「俺はそんなこと、意識したことないんだよ」と言っていた。 しかし篠田さんの場合はそうではなくて、母国語のカメラでありたいと思い続けたということなのである。
私も同じことを考えてきた。私は映画をつくるわけではないが、本であれ展覧会であれ学術研究であれミュージアム演出であれ、そこに母国語的なるものが滲み出してくることを心掛けてきた。
そうするようになったのは、同時通訳グループを十年ほど預かってからのことだった。同時通訳という仕事は、英日であれ仏日であれ露日であれ、日本語をどのような言葉にしていくかということに、すべての真骨頂がかかっている。もともとぴったり通訳することなんて不可能なのだ。
これからの日本も、グローバリズムにかまけないほうがいい。日本のスケボーや日本のラップがおもしろいのは、日本語の語法が体の動きや発語になっているからなのである。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)