館長通信
写真:中道淳
No.242021/12/15
「あらわれる」と「あらわす」
「待人の足音遠き落ち葉かな」(蕪村)。
私たちはつねに何かをあらわしている。おしゃべりをする、いつも何かを着たり脱いだりしている、仕事に向かう、ツイッターする、歌いたくなる、アートする、立候補する、貸借対照表をつくる、スケボーで遊ぶ、誰かに恋をする、戦争を仕掛ける、トーストに目玉焼きをつける、俳句を詠む‥‥。これらは「生活行為」とか「表現」とか「表象」とよばれてきた。一言でいえば「あらわし」である。
「さみだれや名もなき川のおそろしき」(蕪村)。
一方、私たちは何もしなくとも、さまざまな「もの」や「こと」に出会っている。自然・環境・生物が地球上に多くの変化に富んだ「あらわれ」をもたらすからだ。気候が変化する、紫外線が照射している、椿がふくらみスイトピーが咲く、虫たちが動く、月が満ちたり欠けたりする、誕生と疾病と死に立ち会う、渡り鳥がくる、風雨も絶えないし旱魃もおこる、ウイルスが変異する。炭素がふえる‥‥。これは「あらわれ」である。
人間には自然界がもたらすこうした「あらわれ」を五感+アルファで知覚する基準値(ホメオスタシス)がそなわっていて、その値の多寡によって、爽快感や感動や不安や恐怖が微妙に出入りする。この出入りがトリガー(引き金)となって、私たちは着替えをしたくなったり、俳句を詠みたくなる。「あらわれ」が「あらわし」を促してきたわけだ。これが私たちがふだんからおこなってきたコンベンション(習俗)なのだ。けれどもそのコンベンションはつねに微妙に変化する。そこで、その変化を捉えてゴッホのヒマワリや蕪村の梅が躍如する。
「白梅の枯木にもどる月夜かな」(蕪村)。
世界はいろんな場面で成立している。どんな小さな場面にも世界があらわれては、あらわされてきた。事の大小は問題ではない。世界はおびただしい「あらわれ」(現象)と「あらわし」(表象)の関係で成り立ってきたのだ。おそらくこの関係をことごとく記録し、パッケージしてきたのが「本」というものだ。
ミュージアムの歴史にも、以上のような「あらわれる」と「あらわす」の関係が織り成す膨大なレパートリーがさまざまに投影してきた。そのレパートリーの断片がそれぞれのミュージアムのコンテンツ(コレクションや展示物)として提示されてきたわけだ。
しかし実は、世界中のミュージアムはつながっているのである。本にくらべるとかなりとびとびではあるが、少し整理してみればわかるように、世界中のミュージアムを巨大なピタゴラスイッチのようにつなげることは可能なのである。実際にも多くのミュージアムで他のミュージアムの館蔵品が貸与されて、展観されてきた。
とはいえ、世界は「たった一句の蕪村の句」でも成立しうるとも言いたい。角川武蔵野ミュージアムをご覧になるときは細部にこそ注目していただきたい。
角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)