角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.182021/09/15

マトリックスをつくる

ウォシャウスキー兄弟(あるいは姉妹)の映画『マトリックス』は各方面に話題と影響をもたらした。主人公ネオ(実はトマース)がコンピュータによってつくられた仮想現実世界「マトリックス」の住人になって、闘わざるをえない宿命を負っているという設定だ。

元ネタがある。ウィリアム・ギブスンの傑作サイバーパンクSF『ニューロマンサー』の主人公ケイスがコンピュータ複合体「冬寂」に潜入するために、ブラック・ゴーグルの女モリイから「マトリックス」へのジャックイン能力を修復されるというふうになっていた。

こちらのほうには、さらなる元ネタがあった。フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』だ。これはVALIS(Vast Living Intelligence System)という略号で、訳せば「巨大にして能動的な生ける情報システム」という巨大ネットワークがもたらす汎知性がつくる未来世界の中の物語だった。

いずれもコンピュータによる仮想時空システムのことである。それがなぜマトリックスと名付けられてきたのかというと、マトリックス(matrix)はギリシア語では「母体」を、ラテン語では「子宮」をあらわす言葉で、「生みだすもの」を意味しているからだ。それゆえ生体学では細胞の間質のことを、鉱物学では母岩のことを、材料学では母材のことを、数学では行列式のことをいう。つまり、何か新しいものを生みだすために万端を用意しておくシステムがマトリックスなのだ。総じては「母型」と捉えることができる。

ミュージアムの企画や展示にもマトリックスが要る。ミュージアムは歴史資料館であれポップアート美術館であれ、縄文博物館であれ偉人記念のミュージアムであれ、なんらかの情報を絞って提供するところだから、学芸員(キュレーター)はその展示内容にまつわる背景や底辺に関する情報マトリックスをいろいろ用意することが、どうしても必要になる。これを怠ると企画も展示も浅くなる。

かんたんなマトリックスはタテ軸とヨコ軸による大きなエクセル表のようなものだ。たとえば「昭和文化展」という企画があるとすると、タテ軸に年代が並び、ヨコ軸に政治・文学・ヒットソング・主要技術・物価といった分野が並び、それが場合によっては数十ページや数百ページに及ぶ。そこから互いに関係しあう交点を選んで、展示にしていくのである。

系統樹をいくつか用意することもある。上野の国立科学博物館では膨大な数と種類の系統樹がマトリックスを構成してきた。恐竜展をやるときも宇宙の歴史を展示するときも、この系統マトリックスが展示の背景を支える。私が愛知県岡崎市の美術文化博物館の開設準備をしたときは、岡崎出身の徳川家康にちなんで、16~17世紀の洋の東西をめぐる同心円状マップをいくつも作成して、これをマトリックスに当てた。

そもそもミュージアムは、来館者に仮想現実世界を体験してもらうような特色をもつ。本ミュージアムでも、来館者がときにネオやケイスになってもらうことを企んでいる。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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