角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.172021/09/01

赤坂憲雄の武蔵野学へ

東京や埼玉の都会を歩いたり車で走っていると、ささっと道を横切るハクビシンに出会ったり、夜の堀割りのネオンの光に水辺のタヌキの家族が浮き出されていたりして、そうか、ここは武蔵野だったんだと思う。この数年は私の仕事場の隣の庭にのべつムクドリやオナガが数十匹ずつやってきて、武蔵野の空と緑の広さを教えてくれる。

ミュージアム5階の「武蔵野回廊・武蔵野ギャラリー」に、民俗学者の赤坂憲雄さんが選んだ武蔵野をめぐる本が並んでいる。何冊ものめずらしい本と出会える。注目すべきはこの本棚が「雑木林、郊外、川、ハケ、旅、新田開発、移民」というふうに分かれていることで、この7つのキーワードから新たな武蔵野学についての取り組み方が展望できる。

失恋の痛みに耐えていた26歳の国木田独歩が『武蔵野』を綴ったのは、明治30年代だった。話は所沢(入間郡の風景)から始まって、今日の渋谷道玄坂あたりの雑木林を描いた。その瑞々しい「詩趣」溢れる文章の魅力もあって、いわゆる武蔵野ブームはここから始まったのだが、その後の昭和25年に大岡昇平が書いた『武蔵野夫人』では雑木林よりもハケが描かれた。主人公の秋山道子は小金井あたりのハケに住移り住んでいた。

ハケは縄文以来の野川の水が溢れてできあがった崖の地形のことで、昭和の東京の新しい住宅はハケに建てられていった。シャレていた。前田愛・大野勲・内田順文らの文学史的で地理学的な検証がある。そういうハケに登場したのが武蔵野夫人のライフスタイルだった。

武蔵野はいろいろな変化に富む複雑な大地なのである。柳田国男も武蔵野が時代ごとに人為的につくられてきたことを重視した。7つのキーワードはその変化を感じるための大事な窓と切り口になる。とくに「移民」が重要だ。武蔵野は移り住んできた者たちによってそのつど様相を変えてきた台地なのだ。

赤坂憲雄の『武蔵野をよむ』(岩波新書)は、独歩を読みながら3万年の武蔵野の風土や歴史や民俗をどう見ていけばいいのかを探る武蔵野学の旅の起点を示していたものだった。その視点は一言でいえば「武蔵野はまだ発見されていない」というもので、『武蔵野をよむ』は赤坂武蔵野学の予告であった。

予告ではあるが、私はこの本を読んで、これからの首都圏文化はこの視点でこそ貫かれるべきだと感じた。東京は武蔵野の巨きな腕(かいな)が柔らかく抱いた都市なのである。もし武蔵野が枯れれば(あるいは涸れれば)、東京はひからびた都市になる。だから環境保護をしなさいというのではない。武蔵野の地理や歴史や、野菜や昔話や、詠まれた俳句や短歌が、撮られた写真や綴られた記録が、もっと語られていくこと、つまりもっと発見されていくことが東京を潤すということだ。

もともと赤坂さんの民俗学は日本の各地にひそむ「さかい目」や「負い目」を大切にしてきた。そのナイーブでフラジャイルな研究姿勢にはいつも共感してきた。本ミュージアムがそういう赤坂さんの目にどれくらい応えられるかおぼつかないが、できるだけその成果を反映したいと思っている。独歩はこう書いていた、「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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