角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.142021/07/15

山水画とルネサンス

ミュージアムはたんに絵画や博物やオブジェや本を“安置”するところではない。ミュージアムは空間そのものなのだから、空間に何かが投写されたり、別様に見えたり、さまざまな不思議が感じられたりすることがあってよいと、私は思っている。

レオナルド・ダ・ヴィンチは「絵画は触れることのできぬものを触われるように、平らなものを浮き上がっているように、近いものを遠いように思わせること、奇蹟さながらである」と『手記』に書いた。遠近法はルネサンスが生んだ驚くべき視覚像の表現法だった。イタリア語でプロスペティーヴァ、英語でパースペクティヴという。

アルベルティやロマッツォやヴァザーリやマネッティの絵画論や評伝を読むと、ルネサンスの表現者たちが空間をあらわすにあたって、さまざまな試みから遠近法を仕上げていったことがわかる。リリエーヴォという浮き彫り手法、カメラ・オブスクラ(暗箱)による一点透視法、色彩の濃淡による立体的遠近表現、建築家のブルネレスキの設計図などが組み合わさって、平たい画面に魔法のような奥行きが見えるようにした。

たった一点から発する光線の束によって画面全体を透視的に描く遠近法による構成は、それゆえ一点透視法ともよばれた。その後、カラヴァジョやフェルメールやレンブラントやホーホらが登場して、そこにキアロスクーロ(明暗法・陰影法)が加わると、魔法のような遠近法も日常の光景や日々の室内をあらわす画法として当たり前に認識されるようになった。

イコノロジー研究のパノフスキーは『”象徴(シンボル)形式”としての遠近法』で、ルネサンスの遠近法は神の中心点を人間中心に変換するものだったとみなした。そのためこの遠近法はセザンヌやピカソが打破するまでは、ヨーロッパ美術史を縛るものとみなされた。

それでは、美術史上の遠近法は一点透視法だけだったのかというと、そんなことはない。中国に育まれた水墨山水画の世界では「三遠」が生まれた。高遠・平遠・深遠の三遠だ。下から上を見上げる高遠、ほぼ水平に風景を眺望する平遠、渓谷などによって見えにくくなる深みを覗く深遠、この三つの視線を同時に画面の中に描きこむとで山水をあらわしたのである。そこには「ぼかし」「にじみ」の手法も発達した。

三遠が画法として広く知られるようになったのは、北宋の山水画の名手郭煕(かくき)が『林泉高致』を書いてからだが、色を用いない水墨画ではもともと水暈墨章(すいうんぼくしょう)といって、水と墨と筆と用紙の出会いが微妙な様子をもたらすことをいかした画技が試されていた。そこで宋末の韓拙は三遠に加えて、光景が刮目して見える闊遠、少し迷いかげんの視線をあらわす迷遠、なにもかもが溶けこむようになる幽遠を提唱して、なんと「六遠」を描くに至った。

洋の東西では、これほどに遠近法が違っていたのである。つまり空間をどのように見せるかの考え方が異なっていたのだ。日本でも、源氏物語絵巻などに代表される「吹抜け屋台画法」や扇子を開いたときに納得できるように描く扇面画、浮世絵のぺったんこの二次面描写、大雅や蕪村が得意だった余白のほうが広い文人画法などがあらわれて、ヨーロッパ的でも中国的でもない空間描写が堪能されてきた。この空間描写の特色は足利同朋衆や千利休の数寄の空間、衣笠貞之助や溝口健二の映画感覚、手塚治虫や萩尾望都のマンガ空間、村上隆のスーパーフラットなどにも鮮やかに躍如した。ミュージアムはこうした洋の東西をまたぐ空間を現出させるところでもある。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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