館長通信

写真:中道淳

No.102021/05/15

クール・ジャパンとサブカルズ

ノーマン・メイラーが『白い黒人』(The White Negro)の中でクールを定義してみせて以来、がちがちのスクウェアに対する軽快でニヒルなクールな感覚こそがヒップやポップというものだという定説になった。パルプ・フィクションの主人公サム・スペードやフィリップ・マーロウがクールなヒップスターのアイドルとなり、マイルス・デイヴィスの《クールの誕生》がジャズによってそのスタイルを代表した。

メイラーは「正午でなく夜半を、警官でなく悪漢を、連続的でなく連想的に、サルトルでなくハイデガーを、レーニンでなくトロツキーを、スクウェアなオナニーではなくヒップなオージーを」と宣言した。

そんなメイラーの定義から40年後、アンガー・マネジメント理論を提唱した社会史学のピーター・スターンズは『アメリカン・クール』(American Cool)を著して「クールという発想こそがアメリカ人の想像力の核心をなしている」と解いた。ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランド、ポール・ニューマン、デニス・ホッパー、ロバート・デ・ニーロがアメリカン・クールを演じてみせた。その特徴は、「勝手なナルシシズム、ロマンチック・アイロニーな無関心、人に伝えにくい快楽主義」にあった。

やがてこれらからクール・ハークやアフリカ・バンバータらがヒップホップやラップを派生させ、シリコンバレーのITベンチャーたちがTシャツ姿で技術革新をなしとげると、スティーブ・ジョブズが「ぼくたちは世界に凹みを入れたくてクールな仕事をしているんだ」と言うようになった。

これを英国化しようとして失敗したのが、トニー・ブレアの「クール・ブリタニア」だった。さらにこれを追従化するかのように日本の内閣府や経産省が「クール・ジャパン」を言いはじめた。有識者会議が開かれ、座長の福原義春さんに請われて私も副座長を仰せつかったが、誰もいったい何が日本のクールなのか把握していなかった。英国がクールというならオスカー・ワイルドやビアズレーに、日本のクールなら遠州の綺麗さびや桃山の山水画や南北朝のバサラに戻るべきだったのだが、そうしなかったし、それらに匹敵する現在のジャパンクールを発見しなかった。発見しないどころか、アニメや「かわいい」やメイドカフェをクールだとみなしたのである。

日本のサブカルチャーは1980年代の「おたく」とともに浮上したと言われているが、敗戦後の日本はハイカルもサブカルもなく復興をめざしたわけなので、小津安も溝口も、岡本太郎も勅使河原蒼風も、谷崎も手塚治虫も中上健次も、山本耀司も楽吉左衛門も、ハイカルであってサブカルなのである。「かわいい」ばかりがサブカルやクールであるはずがない。ドナルド・リチーやイアン・ビュルマは、日本人はなんでも「かわいい」と言いつつ、本当の苦悩を忘れようとして一億総現在化を仮装しているのではないかと批判した。

なるほどそういうところがあるのだが、そうした「仮装化=仮想化」の風潮のなかでアニメ作家や「おたく」やゲーマーたちが、まるでかつての 吹抜け屋台画報や浮世絵のように、独特の二次元快楽の表現を開花させたことも強調しておかなくてはならない。それは一生のプリーツから大友や押井のアニメにまで及んだ。私はこのあたりなら、日本のクール・サブカルズにあたるものだろうと思った。

いま日本のサブカル的な社会文化はSNSに埋没しながらも、ユーチューブやインスタグラムで何かを訴えようとしているかのようだ。角川武蔵野ミュージアムはその泡立ちを丹念に拾って、新たな物語の胚胎を応援したいと思っている。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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