角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.042021/02/15

図書館と博物館の融合

もともと図書館と博物学は一緒に発達してきたものです。ヘレニズム文化を謳歌したアレクサンダー大王が新都市アレクサンドリアの建設とともに「ミュージアム」(ミューズの館)を創設したとき、図書館と博物学は当時の神々の配置の中にほぼ同時に生まれました。それらは「世界の解読」のための装置でした。

その後、図書館は中世の修道院のヴィヴァリウムとなって、活版印刷以前の写本センターを兼ねます。当時の書物はすべて一冊ずつ写本によって部数をふやしていたのだから、写本センターが図書館のモデルになったのは当然です。多くの修道院が写本室を常備し、その写本の閲覧のための読書室(キャレル)を用意しました。どんなものであったのかということは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が映画化されたとき、多くの人が知るところになったと思います。中世のヴィヴァリウムがモデルになったサスペンスです。

やがてグーテンベルクが活版印刷を発明すると、ほとんどの本が高速で複製可能なものになります。いちいち人の力による写本をする必要がなくなったのです。こうして最初は各地の大学に、つづいては各地の市民センターに、その印刷された本を大量に収集収納し、閲覧させる図書館ができあがっていきました。オックスフォード大学やボローニャ大学をはじめとする大学は図書館とともに誕生していったのです。

一方、博物学は自然現象の謎説きや体の解剖や病気の要因の解明などともに発達したものでした。最初はマクロな天体やミクロな草や虫の克明な観察から始まるのですが、やがて、それらの「知」を総合しようというふうに発展していきます。西洋では古代ローマのプリニウスの『大博物誌』がその統合を果たし、東洋では『淮南子』(えなんじ)などがマクロとミクロをまるごと報告しようとしました。中世になると、博物学者たちは総合だけではなく「未知の探求」にとりくむようになり、西洋では賢者の知の探求や錬金術が、東洋では本草学や錬丹術や漢方医学が発達しました。

博物学はつねに詳細な観察を怠らないという、その後の自然科学の前哨戦を担い、やがて博物図鑑や博物館に発展していきます。大小さまざまな博物誌が編集製作され、多くの図版がエッチングされ、それらが立体模型となって、世界中のめずらしいものがコレクションされて、しだいに巨大な博物館を形成していきました。

図書館と博物館は兄弟であり、姉妹なのです。どちらも「未知」と「既知」のあいだを埋め尽くそうとしました。そのためには三つの工夫が専心されました。一つは全知全能の造物主を想定して、その理念や知性や構成法を想像していくことです。これは「フイロソフィ」「メタフィジックス」となって、多くの書物となります。二つ目は自然のヴェールを剥いでいくには、どうしたからいいかという工夫です。レンズが磨かれ、望遠鏡や顕微鏡が発明され、歯車や滑車が組み合わされて、自然や人工物の「からくり」を暴くということを試みます。ヴェールを剥ぐのだから、これは「覆いを剥ぐ」ということで、まさに「ディス・カヴァー」(dis-cover)に挑むということでした。

三つ目は、できるかぎり自然や生物の謎に近づくために模写物や模型をつくり、さまざまな風景や生態を復元的に模倣することでした。そうすることで、「類推」や「推断」を可能にさせようとしたのです。これには表現の工夫が必要なので、数々の画工や細工師が動員されました。アナロジーのために「ミミクリー」(模写・模倣・模作)が尊ばれたのです。これらはすべて書物として刊行され、なかでも最もアメージングなものが博物館展示されました。

角川武蔵野ミュージアムは、図書館と博物館の融合から始まっています。その出発点には「科学以前」と「科学」と「表現の冒険」がまじりあいます。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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