角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.032021/02/01

アニマ・面影・キャラクター

蕪村に「いかのぼり きのふの空の ありどころ」という句があります。私が大好きな句で、正月の何日目かの空を見上げながら、そこにはいまは何もない空が広がっているけれど、あのあたりには昨日は凧(いかのぼり)がゆらめいていた、子供たちの元気な声も聞こえていた、そこに「きのふの空」のありどころを感じるという一句です。

私は蕪村が「面影」を詠んだのだと思います。面影というものは、目の前に「そのもの」がなくともアタマの中に浮かぶものです。亡くなった母の面影、往時の都の面影、ずっと会わないままの友の面影。いろいろの面影がありますが、それは記憶そのものではありません。何かの拍子にたくさんの記憶のアーカイブの中から「そのもの」の存在の消息が到来して、新たに感興をゆさぶるのです。それが「きのふの空」であり、「ありどころ」であって、つまりは面影の正体なのです。では、面影はその当人だけに蘇るものなのでしょうか。

カール・ユングは人々の心にひそむ「アニマとアニムス」を重視しました。アニマは男の意識の中にひそむ女性的な元型のことを、アニムスは女の意識にひそむ男性的な元型のことをさすのですが、まとめてアニマ(魂)とも呼ばれます。ユングはこのようなアニマの動向には集合的無意識がうごめいていると判断しました。すなわち、人々の心や魂に去来する面影には、何か共通のアニマが関与していると考えたのです。面影の去来には集合的なもの、つまりアニマがふくまれるのだと見たのです。

古来、おびただしい数のキャラクターが描かれたり、彫られたり、綴られてきました。それらは神々であったり、英雄であったり、異様な怪物や異国の人々であったりしました。世界でごく初期に綴られた物語は古代メソポタミアの叙事詩『ギルガメシュ』やホメロスの『オデュッセイア』ですが、そこにはたくさんの神々と怪物が綴られています。

以来、どんな文学も絵画も演劇も彫刻も、数々のキャラクターを象ってきました。紫式部もボッティチェリもシェイクスピアも、世阿弥もバルザックも近松門左衛門も、ロダンも朝倉文夫もシャガールもダリも、それぞれがキャラクターを表現しようとしました。キャラクターとは「特徴をもつもの」という意味です。キャラクタライズとは特徴をいかすという意味です。文字を綴ることもキャラクタライズなのです。そのような表現されたキャラクターには、それを詠んだり見る者に強烈な印象を与えます。そこには面影とアニマがひそんでいるからです。

やがてキャラクターは写真や映画やマンガや大衆芸能に広がり、作家やクリエイターたちはかつての神々や英雄や怪物に匹敵する新たなキャラクタライズを競うようになりました。こうしてアニメーションの時代がやってきたのです。アニメーションこそ「アニマ・モーション」のこと、アニマを動かしてみせるという試みでした。そこでは人物だけではなく、動物たちや高校生やサイボーグのキャラクタリゼーションも乱舞するようになりました。

角川武蔵野ミュージアムは、アニマと面影とキャラクターを重視するミュージアムです。ここにはたくさんの「物語」と、その物語から飛び出したキャラクターがひしめきます。それはさかのぼれば生命の面影とも、武蔵野の歴史ともなるはずです。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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