角川武蔵野ミュージアム

館長通信

写真:中道淳

No.022021/01/15

ハイカルチャーとサブカルチャー

孔子は「正名(せいめい)」を重視し、荘子は「狂言(きょうげん)」が大事だと考えました。正名というのは「名を正しくつかう」という意味で、「狂言」は「あえて言葉づかいを狂わせる」という意味です。「名」とは概念やモノやコトについての名辞のことです。「言」とは表現のことです。

孔子の正名は社会の筋や道徳のために規範とされましたが、それはいささか杓子定規なものでした。あまり自由な発想にはならないのです。そこで、文芸や芸術や新しい思想のためには、あえて荘子によって奨められた「狂言」をつかうことが注目されたのです。

世の中は、大きくいえばこの「正名」と「狂言」でできています。二つはレギュラーとイレギュラーとも、フォーマルとカジュアルとも、ノーマルとアノマリーとも、メインとサブともいえます。神話に正統な神々と怪物や妖精がいるのも、能楽に「能」と「狂言」があるのも、大学で学問と芸術が両立してきたのも、テレビ番組にニュースとお笑いがあるのも、この大きな対比が生きているせいです。

さて、角川武蔵野ミュージアムでは「ハイ&ロー」という考え方を大きな下敷きにして、いろいろな企画構成を組み立てるようにしました。フォーマルなハイカルチャーと、カジュアルなサブカルチャーの両立を活かそうという考え方です。クラシックとポップスの両方を提供しよう、そして、この二つをときに「まぜまぜ」して見てもらおう、感じてもらおうというふうに、組み立てることにしたのです。

では、ハイカルチャーとサブカルチャーはまったく別々に進展してきたのかというと、そんなことはありません。サブカルの中で「正名」が軽視されたり無視されたりするとはかぎりません。たとえば手塚治虫のマンガは『火の鳥』から『奇子』や『ブッダ』まで、『三つ目がとおる』から『ブラック・ジャック』まで、つねに人間性や愛やコミュニケーションの本質を問いました。けれども手塚はそこには「変なもの」や「変なこと」を必ず入れこんで、「狂言」としてのおもしろみを心掛けたのです。

このことは、そもそも芸術(アート=アルス)というものが人間性や愛や美をあらわすには、そこに奇妙なものがあえて表現されることによって、その訴える力を増してきたという表現の可能性の歴史に、もとづいていたことでもあります。だからこそレオナルド・ダ・ヴィンチは奇形を描き、スウィフトはガリバー船長をして変な国に訪れさせ、歌麿や国芳は大首絵や妖怪を浮世絵にし、ピカソの描いた顔は多面的になり、谷崎潤一郎は『痴人の愛』を書き、ジャコメッティの人体彫刻は細長くなったのです。

やがてアメリカにポップアートが登場すると、コミックやカトゥーンの一部を油彩画にするリヒテンシュタインやスープの缶詰を克明なシルクスクリーンにするウォーホルらが、その時代特有の「ハイ&ロー」を一括りのアートにしてみせました。ここに「正名」と「狂言」はまるで入れ替われるほどに両義的なものになっていったのです。

日本の80年代、世界を驚かせるサブカルチャーが次々に出現しました。富野由悠季の『機動戦士ガンダム』、大友克洋の『AKIRA』、士郎正宗の『攻殻機動隊』などです。それらは次々にアニメ化され、先行していた宮崎駿による『風の谷のナウシカ』などとともに、新たなジャンルを形成していきました。日本にも新しい「ハイ&ロー」が産声を上げたのです。

私には、いつも大事にしてきている言葉があります。それはピアニスト、グレン・グールドの言葉で、「よく練られた逸脱こそ、新たな芸術の様式をつくる」というものです。逸脱はサブカル的ですが、それが「よく練られた逸脱」になると、時代をひっくりかえすほどの様式になりうるというのです。角川武蔵野ミュージアムも、そうありたいと思っています。どうぞ、逸脱を愉しんでください。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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