館長通信

写真:中道淳

No.852024/08/15

本と遊ぶために(6)ときには三球三振してみる

数千年にも及ぶ古今東西の本の歴史が私たちにもたらしてきたものは、とてつもなく眩めく成果の砲列です。それは無数の歴史であり、神々と文明の異様な形であり、多くの説明しがたい自然界の現象でした。

その大半は「知のプレパラート」として、厖大な本のページ群の中に次々に収容され、何度も構成され、編集されてきました。翻訳も加わり、図版が添えられ、その本の理解を支援する注釈書も惜しむことなく提供されてきました。

こうしてここに登場してきたのが、「プロの読み手」と「プロの書き手」です。かれらはのちに研究者として大学などのアカデミーに所属したり、またいわゆる「著者」(オーサー:author)としてオーソライズされることになりますが、当初は預言者や見者(けんじゃ)や教会の司祭であって、天体や数学の動向に熱心な「難問を解く人」であり、また、プラトンやブッダのような「対話をする人」であったのだろうと思います。

ほどなくして世界中に〈読書世界〉ともいうべきユニバースが形成されていきました。すでにマルチバースを包みこむ勢いでしたが、そのあまりの煩雑な科目力と知の混成力に、ここから先、〈読書世界〉は学識社会の形成に乗り出すのです。つまりユニバース(大学)をつくり、それらを共存させていったのです。

学識社会の形成は〈読書世界〉を教育と学習のプロセスに組み込み、各地に図書館や研究施設が整備され、おびただしい目録が整えられ、検索システムが充実していきました。十進法をいかした図書館の分類法も統一されるようになります。しかし〈読書世界〉はこのようなサービスシステムが徹底されれば、それで、はたしておもしろくなっていくのでしょうか。

かくてバロック紀をへると、古典主義、ロマン主義などのムーブメントが次々に訪れ、大過去の神話時代の中の記憶の森や因果応報のドラマが新たな“読み替え”に入ることになります。バッハやゲーテが登場し、ナチュラルヒストリー(博物史)の研究が独自に進み、イスラム社会や中国社会でもユニークな万有百科が編集され、私たちは〈読書世界〉が気づかずに醸成してきた”知の発酵力“のようなものに気づくのです。それとともに多くの文人や作家や詩人たち、またユニークな旅行家やエッセイストも誕生していきました。

さあ、こうなると、本はもっともっと自在に、好きなように読んでもいいんだという時代がやってきます。珈琲に砂糖を溶かしながら読むリトルブック、夜汽車で耽る推理小説、一度は外箱の中を覗きたい全集本、書店の棚から次々に引っ張り出してみる盗読……、本の愉しみは本から生まれるだけでなく、ライフサイクルの中に弾(はず)んでいったのです。

かつて私は、冷やして読む本、塩センベイのように噛(かじ)る本、編み上げブーツよろしく足元を引き締める本、カーディガンっぽく羽織る本などをあげ、読者は自分の好みに合わせて本たちと遊ぶものだということを強調しました。ぜひともいろいろ試してみてください。

ただし、どんな本も付き合いがいい相手とはかぎりません。剛速球を投げてくる本も、謎が深まるばかりの本も、雑草のように育てていかないと馴じめない本もあります。たまには三球三振するのもいいでしょう。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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