館長通信
写真:中道淳
No.012025/01/15
「わかりやすさ」に抵抗する
「玄月」というのは松岡正剛さんの俳号です。〈ぼくの俳号は「玄月」という。渋谷のブロックハウスで何人もと共同生活をしているころ、(中略)「ジャパン・ルナソサエティ」を満月の夜に催していたのだが、それがときどき趣向の句会になって、ある例会の夜に残念ながら小雨が降ったので、それならと、その見えない月に因んで玄月とつけた。玄とは黒よりも濃いという意味である〉
(https://1000ya.isis.ne.jp/0517.html)
〈ついでながら「松岡正剛」という名前は、どうみても堅すぎるとおもっている。だいたい「岡」がたった4文字のなかに二つも入っている。そこんとこ、両親は検討しなかったのかと文句を言いたくなるが、お察しのとおり、正剛は中野正剛から父が採った名で、妹は敬子といって、原敬から採った。中野正剛も原敬も暗殺された人物の名で、これはなんとひどい命名をするのかとおもったが、父の言い分としては「人から暗殺されるほどの宿命を背負ったほうがいい」ということらしい〉(同)ということなのですが、去る12月25日、「玄月惜影会」がありました。「玄月の影を惜しむ」さすが松岡氏と活動を共にしてきた人たちならではの命名です。故人の活動拠点だったISIS館が開放され、生前の活動ぶりを実感できるようになっていました。実に多くの人が訪れ、立錐の余地がない部屋もあるほどでした。私など、その創造力の豊饒さに圧倒されるばかりでしたが、松岡さんは生前「博覧強記」や「知の巨人」と呼ばれることを嫌ったそうです。そんなありきたりな分類を受け付けなかったのでしょう。
朝日新聞11月9日夕刊(東京本社版)に松岡正剛氏について記者がこう書いています。〈どの時代を語る口調にも一貫していたのは、社会が求めるお仕着せの「わかりやすさ」に抵抗し、目の前に立ち現れる丸ごとの世界に向き合うにはどうしたらいいのかを考え続けようとする姿勢だった〉「わかりやすさ」に抵抗という表現を読むと、いつも「わかりやすさ」を追求してきた私として忸怩たるものがありますが、武蔵野ミュージアムを初めて訪ねたときの感想は「わかりにくさ」の魅力でした。新聞やテレビが伝えるニュースの「わかりにくさ」にはいつも抵抗してきた私ですが、世の中のすべてについて「わかりやすさ」を求めることなどできません。世界は不条理です。人の人生もまた不条理の連続です。不条理が溢れているからこそ、人類はそれに直面し、どう生き抜いていくかを考えてきました。そんな試行錯誤が人類の文化を発展させてきました。一方で、不条理をなんとか理解しようとする試みは、時に「陰謀論」を生み出してきました。薄っぺらい「わかりやすさ」で世界を理解しようとすると、人々の前に陥穽が出現するのです。
武蔵野ミュージアムは、敢えて単純な「わかりやすさ」に抵抗します。その手法の一つが「まぜまぜ」です。図書館なのか美術館なのか博物館なのか。当館を訪れた人々は、その混沌さに当惑するかもしれません。「これはなんだろう」と疑問に思う気持ち。それが新たな発想の培養器になるはずです。これからも当館は来訪者を当惑させる企画を考えます。薄っぺらな「わかりやすさ」に抵抗する当館の試みにご期待ください。
角川武蔵野ミュージアム館長
池上 彰