館長通信

写真:中道淳

No.812024/05/01

本と遊ぶために(2)「書く」と「読む」のあいだ

私たちは、ふだんいろいろなものを読んでいます。新聞、テレビのテロップ、スマホのニュース、学校の教科書、小説やエッセイ、野菜や商品の名前や値段、街の看板、レストランのメニュー、マンガの吹き出し、電気製品やクスリの取説(とりせつ)、受信したメール・・・。毎日毎時、たいへんな質と量です。

社会や文化はどうしてこんなにも「読む」ということを普及させたのでしょうか。そもそも「読む」には識字力やある程度の知識や解釈力が備わっていなければならないのに、これではいささか強制的に読まされているみたいだし、なんといっても多すぎます。それなのに、なぜどんどんふえていったのか。

読む情報がふえていったのは、「書く」がふえたからです。書いたものが印刷などの技術によって複製可能になったからです。また「書く仕事」が多様になったからです。ヨーロッパの歴史でいえば、17世紀半ばにロンドンにコーヒーハウスが出現し、それがまたたくまに都市の情報拠点として目立つようになってから、「書くもの」に応じて「読むメディア」が連携してふえていったのです。

コーヒーハウスはその後の数十年で、小説、定期マガジン、広告の様式などを発明し、政党、株式会社、代理業などの拠点となっていきました。小説はノベルズ(新奇なもの)として、『ガリヴァー旅行記』のスウィフトや『ロビンソン・クルーソー』のデフォーたちが思いつき、その読み物がマガジンに連載されたのです。株式会社はロイズ・コーヒーが保険業務を通して思いつきました。

この動向はパリのカフェなどにも飛び火して、世の中にメディアが出回っていくきっかけとなり、それに「書き手」の職業化が加わって、おびただしい数のコピーライターの多様化をもたらしたのでした。「書く」と「読む」は、メディアや結社を媒介にしてつながっていったのです。

しかし、「書いたもの」はなぜ「読めるもの」をめざしたのか。「話し言葉」は読むものではなく「聞くもの」だったのに、書き言葉が人々に読むことを促していったというのは、考えてみると不思議なことです。なぜ書き言葉はリテラシーの普及をもたらしたのでしょうか。

いくつかの答えがありうるのですが、一番下敷きになっているのは「法律」や「制度」が言葉だけで仕上がっているからです。では、なぜ法律や制度が一番の下敷きになったのか。

話が急にさかのぼりますが、古代ペルシャはダレイオス大王の時代に巨大な帝国を築きます。大王はこのとき「王の目・王の耳」によって統治をすると宣言します。「王の目・王の耳」とは、すべての情報を王が言葉の末端まで把握するということです。この至上の把握をカンペキにするためにつくられたのが、法律や制度だったのです。同様のことは、ハムラビ王やカエサルや始皇帝のものとしても残っていますし、主人公が王ではなく議会や市民になっても、法律や制度を言葉でつくっておくということは維持されました。

つまり、社会に溢れた情報はその根底で上意下達の”言葉の縛り”をもっているということです。こうしてありとあらゆる情報が言葉によって書かれ、それらを読めるようにするための教育が組み立てられ、世界は「読み書き、そろばん」を大前提にするようになっていったのでした。

けれども、これはガチガチの言葉社会です。いったん「読み書き、そろばん」を学習した者にとって、こんな窮屈な縛りで満足していられるはずはなく、ここに自在な「書き手」が次々にあらわれるようになったのでした。

こうして登場してきたのが「本」でした。書き手が自在に展開したコンテンツを、より多くの読み手に伝えるため、本や雑誌や図鑑や辞書がぞくぞと登場していったのです。このことは、政治結社や宗教団体の活動にとっても欠かせぬ作業となります。グーテンベルクの最初の活版印刷物が『聖書』であったことは、象徴的な出来事だったのです。

角川武蔵野ミュージアム館長
松岡正剛
(Seigow MATSUOKA)

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